私の読書の履歴書23 20代前半10

今回も本題が長くなりそうなので、前置き話しで話していくよ。

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●ノルウェイの森

村上春樹さんの作品を『ノルウェイの森』から入って、なじめなかった、合わなかったからと他の作品を読まないのは、じつは間違いだったりする。
なぜなら『ノルウェイの森』は代表作なんだけど、村上春樹さんの作品の中では別物だからなんだよ。

『ノルウェイの森』が他の作品と違うのは、ほとんど仕掛けがないことと、作品の裏に物語がないことだ。
あの物語は本に書いているものがすべてであり、書かれていない物語はない。しいていうなら直子が入院した理由がはっきりと書かれていないことくらいだ。でもこれも読めば「あれかな?」っていう推測ができる。

もちろん、表面には書いていない登場人物の感情や思考はあるけれど、それは村上作品だけに限ったことじゃない。
他の作品と共通しているのは、主人公の語り口調と簡単に真似できそうでやってみたらとうていおよばない比喩かな。

だから『ノルウェイの森』を読んだけど村上春樹は合わないなんて言わずに、他の作品を読んでみたらどうだろう?
『海辺のカフカ』がいいかもしれない。
『1Q84』は初めて読む人が読むものではないと思う。『騎士団長殺し』も他の作品を読み続けてきた人なら「おかえりっ!」って感覚で読めるけど、初めての人にはおすすめできない。

デビュー作の『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』までを一気に読むか『海辺のカフカ』かな、やっぱり。
短編集は手を出さないほうがいい。読みやすいし、おもしろいものもあるけど、難しいというか、ちゃんと解釈しようとすれば、とても難解だから。

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で『ノルウェイの森』なんだけど、私が思ったのはこれって『ノルウェイの森』以前の長編と一部の短編の解答なんじゃないのかなってこと。
春樹作品に共通して登場する直子。
この物語での直子の言動や入院することとか、そういうのも含めて、特に初期三部作での語られることのなかった裏の物語がこれなんじゃないのかなって思ったんだよ。
短編『蛍』はこの『ノルウェイの森』へと繋がるというか、この作品を書くきっかけになったんだろうけど。『めくらやなぎと眠る女』は解答でもあり『ノルウェイの森』を書くきっかけでもあるかな。

って考えると『ノルウェイの森』を読んでから初期三部作を読んだほうがいいっていう人の意見もわからなくはないんだけど、私はやはり、村上春樹さんの作品は最初っから順番に読んだほうがいいって思うんだよ。
自分であれこれと考えながら読んで『ノルウェイの森』にきたときに「あぁ、こういうことがあったのか」と。
そうすると繋がるところとか、見えるところとかがあるんだよ。

もちろんすべてじゃないし、作品によって登場人物の役割は違うし、作品に仕掛けられたものやテーマも違う。だから『ノルウェイの森』を読んだからすべてがわかるわけじゃないんだけど『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』は特に見えてくることもあるんじゃないかな。

もちろん、この作品単体で読んでも楽しめる。
この作品がなんであんなに売れたのかっていうと、わかりやすかったからだし、時代に合ってたから。
そして、今読んでも耐えられる普遍性があるから。

 

 

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●ダンス・ダンス・ダンス

初期三部作の主人公「僕」がふたたび「いるかホテル」に行ったり、羊男と再会したりと、これまでの作品を読んできた人には嬉しいこともあるけど、そこは村上春樹さん。嬉しいというよりは辛かったり悲しかったりする。

この作品が刊行されたのは1988年。
この物語は80年代が舞台なんだけど、あの頃の日本は経済だけじゃなく国民も元気だった。今(2018年)と比べたら大違いだ。
あえていうけど、元気だったと言っても、良くも悪くも元気だったし、良くも悪くも良い時代だった。って言っても、あの時を過ごした人じゃなきゃわからない空気だったから、これ以上はやめとくよ。

でも、この作品を読むと思うんだけど、このときから村上春樹さんは、警鐘を鳴らしていたんじゃないかな。
このままだとこの国の人は大事なものを失くしてしまうんじゃないか、そして、なくしたものは容易に取り戻せないものなんだと。
じゃあ、あの時の日本人が失いかけていて、今の日本人が失ってしまったものは何かって聞かれたら、明確な言葉を持たない。こういうところ、いつもほんっとすいません。

言葉にできない何かであることは確かで、それは今の日本人の多くが失ってしまったのも確かなんだよ。
その、私が明確な言葉で表現できないものをもっているのが、登場人物の五反田くんだ。

・この物語は「再生」の物語だ

初期三部作の最後『羊をめぐる冒険』で「僕」はすべてを失った。
ほんと、それは悲しいというよりは寂しい終わりだった。
その後「僕」はフリーのライターとして、文化的雪かきと自認する文章を書いていた。
いるかホテルは26階建ての高層ビルに変わっていた。

僕はいるかホテルの一室で羊男と再会する。

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
  ダンス・ダンス・ダンス 上 p.165より引用

その後、札幌の映画館で中学校の同級生、五反田くんが出演する映画を見る。ベッドシーンで、カメラが回りこむようにして移動して女の顔を映し出すと、それは『羊をめぐる冒険』に登場したキキだった。

東京に戻る僕に、眼鏡のよく似合う女性従業員から、ホテルに取り残された13歳の少女ユキを東京まで引率するよう頼まれる。

多くの人が死に、多くの障害が僕に向かってくるが、僕は音楽が鳴り続く限り、複雑なステップを踏みながら踊り続ける。
失われた心の震えを回復するために。

そう『羊をめぐる冒険』で失ったのはすべてだ。
自分の心の震えすらも失ってしまったんだよ。
自分探しっていう人もいるけど、ニュアンスが違うんだよね。
なぜなら、探すんじゃなくて、取り戻すための冒険だから。

ラストが大好きなんだ。
こんな幸福感に満たされたラスト、村上作品では他にないんじゃないかな。
現実の障害を乗り越え、あちら側からこちら側に帰ってくる。
下巻のラスト3分の1は、いつも一気に読むことにしている。
何度も読んでるからどうなるのかも、最後の一行に何が書いているのかもわかっているのに、私はいつもわくわくする。
ああ、今回も冒険が終わってしまう。あの言葉を読む時が来る。
そしてラストの一行を読み終えて、しばらく放心する。

そして思うんだ。
私も生きている間(音楽が鳴り続けている間)は、不器用でも慣れていなくても下手くそでも、できるだけ上手く踊らなければいけないし、上手く踊れるようにならなきゃいけないんだって。

 

 

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このあとの村上春樹さんは長編『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』を発表していくんだけど、私は個人的にはあまり好きじゃない時代なんだよね。
そろそろ村上春樹さんを追うのはやめようかなと思ったときに刊行されたのが『海辺のカフカ』だった。
これがまたすんごいおもしろかったんだよ。ま、とうぶん後になるんだけどね。

次回は中上健次さんにしようかな。って言いながら違う人、違う作品を話すかもしれないけど。
というわけで、今回はここまで。

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