私の読書の履歴書18 20代前半5

高校卒業までは本を選ぶ基準って、
・自分が読める文章
・おもしろそう
・ミステリか伝奇かホラーかミステリ。
っていうこの3つだったんだよね。今思い出してみたんだけど。

高校卒業してからは基準が変わった。
・今まで読んでたのよりちょっとだけ難易度高そう
・名作やロングセラーだけど、気合と根性と忍耐力で読まなくはなさそう。
・好きなジャンルだけど読んだことがない人の本を読もう。
というふうに変化した。
でも、この頃はまだ新書や専門書においている本はあまり読んでなかったな。小説中心。いや、9割5分小説だった。

小説は好きな作家、読みたい本だったら単行本でも買うようになる。あの頃は文庫化されるまでに3年くらい待たなきゃいけなかったりしたからね。
だから、今は当時と比べれば、私たち読者側にとっては嬉しい時代になったんだよ。ただ、文庫化が早いということは、それだけ単行本があの時と比べて売れなくなったということ。
作家も出版社も言ってみれば商売してるんだから、売れなければ収入がない。
収入がなければ、作家は他の仕事と兼業しなきゃいけないし、デビューしても作家は副業のままっていう人もかなりいる。

まあ、あの頃と比べれば、ゲームとテレビは以前からあったとしても、ガラケーからスマホになって、インターネットも普及して、暇だから本でも読もうと思う人が減ったのも確かだけどね。

ネットで検索すれば、わからないことを知ることはできる。
テレビだっていろいろな情報を届けてくれる。
でもね、本を読まなきゃ、思考力は衰えていくばかりで、浅くなる一方なんだよ。
だって、ネットで検索しても、動画見ても、テレビ見ても、情報を受け取ってばかりで考えてないんだから。
そこを狙ったのがいわゆるフェイクニュース、SNSでのガセネタだったりするんだ。

受け取ることに慣れてしまって、それが本当かどうか考えることをしない、または考えられないから、見た瞬間に反射的に「マジでかっ!」って反応してしまうんだ。

ネットもテレビもマスコミも、真実を伝えていると思ったら大間違いだ。
いくつかの事実をつなぎ合わせて、それっぽく報道して、真実を伝えないことは多々ある。
最初っから報道しないことなんて山のようにある。

でも気をつけてほしいのは、本も嘘をついていたり、偏っていることが多々あるってこと。
右側に寄ってる人が書いた本と、左側に寄ってる人が書いた本がある。
じゃあどうしたらいいのかってなるんだけど、そこは本を読んだら、これはこういう立場で書いた本なんだなって、読後に自分で判断することだ。
で、次に違う立場で書いている本を読むことだ。

世界は自分に見えている世界にしか映らない。
右によっている本や報道や情報ばかり見ているとそう見えてくる。
左によっている本や報道や情報ばかり見ているとそう見えてくる。

世界には希望なんてない、人間なんて信じられないってものばかり見てるとそう見えてくる。
世界には希望が溢れているとは言わないけど、希望はそこかしこにある。私もあなたも、今、どんな状況でどんな立場にあるとしても、今より良い方向へ向かいたいなら、そっちへいく道はいくつもある。
とりあえずできることからやってみるっていう、ほんのちょっとした勇気があればね。

と、まあ、読書の履歴書とはまったく違う話をしてしまったけど、本題に入ろう。

Contents

●上弦の月を食べる獅子

夢枕獏さんの作品の中では、一般的なレビューサイトではなぜか評価が3とかなんだけど、私は好きだしすごいって思った作品なんだけどね。

この世界にある、あらゆる螺旋を集める「螺旋収集家」はある日、現実にはありえない螺旋の階段を見つけて上っていく。
時代は違うが、若いときの宮沢賢治が、北上で巨大なオウムガイを見つける。
2人は時間を超えて融合し、アシュビンとなって異世界へ。

ってここまでで夢枕獏節炸裂。
アシュビンていうのは、アシュビン双神に由来している。インド神話における医術の神で、美しい、うりふたつの双子の神とされるんだけど、詳しくは検索して。

で、アシュビンは誰も見たことのない蘇迷楼(スメール)の山頂を目指すんだ。
蘇迷楼ってのは蘇迷盧とも言うんじゃなかったかな。須弥山のこと。仏教で出てくる神話的な山のことで、この山頂でアシュヴィンは問答を繰り返すんだけど、この問答が深い。
最終的にアシュビンは自分が何者かを知る。

仏教思想とヒンドゥ的宇宙観が入ってる、まさに壮大な物語なんだけど、仏教もヒンドゥー教もわかんなくても、なんかすげぇって思えるよ。

夢枕獏さんの作品を読むといつも、人ってなんなんだろうとか、生きることとかを考えるんだ。でも、結果として「生きよう」って思える。

 

 

Amazonはこちら – 上弦の月を喰べる獅子(上)

●姑獲鳥の夏

京極夏彦さんのデビュー作。
新書のミステリか伝奇を読もうと思って、書店の棚を見たら、表紙を向けて並べていた。
まず「姑獲鳥」が読めない。「こかくちょう?」って表紙をみればちゃんと「うぶめ」とふりがながついてるし。読めたところで姑獲鳥がなんなのかわからない。
表紙は蒔絵のような感じで着物を着た女性が描かれている。
とりあえずと思って、冒頭を読んだら「なんだこの読みにくさは」。
文章こそ今の日本の文章だけど、漢字が今は使ってないような漢字が並んでいる。
けど、興味はある。っていうか、読んでみたい。
というわけで購入した。

4分の1くらいは文章に慣れるまで苦労したけど、そこからがとまらない。
探偵役の(探偵も出てくるんだけど、キャラの癖が強いんだよね榎木津礼二郎が)、京極堂(これは本屋の屋号で、名前は中禅寺秋彦)のうんちくもおもしろい。
妖怪といえばゲゲゲの鬼太郎くらいだった私にとって、こういう視点でとらえるのが新鮮だったな。

どうしても内にこもっちゃう関口巽が眩暈坂をのぼって中禅寺秋彦がいる京極堂へ向かっているシーンから始まる。この眩暈坂の描写がいきなり好きなんだよね。
関口は「二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うか」と最近耳にした久遠寺家にまつわる奇怪な噂を話す。京極堂なら真相を明かしてくれるかもしれないと思ったからだ。
京極堂は驚く様子もなくこう言うんだ。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
ってね。いやあ、かっこいい。もう止まんない。
けっきょく徹夜で読んだ。

ミステリだからあまりあれこれ書けないんだけど、あのトリックはどうかな。アンフェアなんじゃないだろうか。
本格ミステリじゃないからね。まあ、物語として読むならあれでいいんだろう。

映画化もされたんだけど、あれはちょっと、なんか、いや観ないことをおすすめする。
別物だから。

次の年、この百鬼夜行シリーズで一番好きな『魍魎の匣』を刊行するんだけど、その話は次回。
ちなみに下のリンクは文庫版。表紙は新書版のほうが好きなんだよね。ま、中身は一緒だからいいっか。

 

 

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

京極夏彦さんの作品が売れたことで、こっち系の作品やシリーズがばんばん出るようになるんだよね。
藤木稟さんの朱雀十五シリーズとか、高田崇史さんのQEDシリーズとか。
西風隆介さんの龍の系譜シリーズも好きだったんだけど、著者が病気のため中断してるんだよね。
藤木稟さんは朱雀シリーズ書かないでバチカン奇跡調査官シリーズが好調だし。
QEDは高田崇史さんが他のシリーズとかも書いてて、以前ほどではないけど、今でも続いてるけど。
このあたりのことも今後話していくつもり。

では、今回はここまで。
また次回。