私の読書の履歴書33 30代3

今日話す『1Q84』のBOOK3を読み終わったあたりから、比喩的にいうと、私はいろんな物事が見えなくなり聞こえなくなる。そして私の思いや感情や言葉が伝わらなくなる。本も読んでいたんだけど、残る本に出会っていない。見えなくなり聞こえなくなっていたから。
『1Q84』が私に影響したんじゃないんだけどね。

けっきょくそんな私から離れていった人もいた。近寄ってくる人はいなかった。
そんな状況が続き、やがて私は自分を見失った。

●『1Q84』

前回、大衆操作について話したんだけど、そのなかでウィキペディアから引用したのが、村上春樹さんの『1Q84』の項目だったんだよね。
で、前回『1Q84』についても話そうと思ったんだけど、思いのほか長くなったので、今回にまわしたんだよ。

『1Q84』の前に発売された長編『海辺のカフカ』では、戦争・概念としての悪や森、あちら側といったものを取り入れていたんだよね。これは春樹作品ならいつものこと。長編なんだけど、2つのパートに分かれているのもよくあること。
なんだけど、いつもなら2つのパートがどこか、もしくは最後には融合するのに『海辺のカフカ』では、表面上は2つのパートが分かれたまま物語が終わる。
表面上はね。

で『1Q84』は、これまた2つのパートに分かれているんだけど、男女の冒険なんだよ。
短編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』が形を変えて長編になったようなところもある。
村上春樹さんの作品、短編も含めて順番に読んでるならピンとくると思うんだけど。っていうか『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』を読んだことがあるなら、あれ?って思うよね。
青豆と天吾の2人の子供の時のところ読んだだけでわかる。

長年村上春樹さんが取材していた、オウム真理教についてのことから考えたことや感じたことも込められている。
『海辺のカフカ』にある、タフにならなければいけないという言葉も連想したんだよね。

ジョージ・オーウェルの『1984』も下敷きになってるし。ま、これはタイトルから類推するのは簡単だけどね。
って、これウィキペディアの『1Q84』の項目に全部書いてるんだけど、この項目読む前に私が思いつたり感じたことだから。
と言っても、信じてくれない人は信じてくれないんだよね。
信じるか信じないかはあなたしだ……ま、いいっか。

ただこの『1Q84』は、おもしろかったけど、個人的にはいま一歩。
途中で役目を終えてその後登場しなくなるふかえりは、深田恭子さんの容姿にエヴァンゲリオンの綾波レイの仕草など見た目以外のものを詰め込んだのではないかとも思ったけど。

いつものいわゆる「あちら側」へ行かないのも、個人的にはモヤモヤしたんだよね。行きそうで行かない。

このブログではネタバレは極力しないことにしているから、あれこれ話さないけど、なんかこうね、う~んっていうのが私の感想。
『海辺のカフカ』がいいなぁ。
まあ、物語として書いていることだけを読んでもおもしろいんだよ。人によっては好きだっていう人もいるんだし。あくまでも私の個人的な感想なので、どれどれと読んでみるのもいいんじゃないかな。

 

 

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というわけで、今回はここまで。
冒頭で話したように、私はこのあと自分を見失い、読んだ本も文章を追っているだけで記憶にも残さない、ただただ字を追うだけの読書をしていた。
村上春樹さん風に言うと「まったく、やれやれ」だ。

40にして惑わずと、昔の偉い人は言ったけど、私は40にして迷った。
いや、40過ぎて数年後に迷った。
見失ったいたことを自覚し、そして迷ったんだ。
これから先、どうすりゃいいんだろうって。

ま、とりあえず続きはまた次回。