歎異抄 – 著/唯円・述/親鸞 訳・川村湊

 

 

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■究極の「他力本願」

宗教であれ、伝統あるいわゆる「道」がつくもの(柔道・剣道・華道・茶道等)であれ、それを開いた人の言葉は絶対的なものだよね。なのに、時代が下るにつれて、人によって解釈の違いが出てきて、はじめはひとつのまとまりだったのに流派が複数出てくる。
真摯に解釈の違いが出てくるのは、まあ、人間だし、あるかもしれない。けど、権力や利益のために捻じ曲げる人もいたりする。
開祖にしてみれば、悲しいというか嘆かわしいというか、それも予想通りなのか、ため息ついて見ているのかはわからないけどね。

で、この『歎異抄』も浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)の教えを、なんかみんな変に解釈したり、間違ってたり、歪めてたりしてない?って思った唯円が、とりあえずもう一回、原点に戻ろっていう思いで記した書。

あ、マジメに研究してる方や、マジメなのを求めている方は、これ以降読んでも得るものがありません。
仏教も浄土宗も親鸞についても唯円についても、ズブの素人な私が読んだ感想なんで、なんかこう専門的なこととかを知りたいんなら、今すぐこのブログから、もっとちゃんとしたところへ行って下さい。それがお互いのためってもんですから。

さて、というわけで話を戻すけど、この『歎異抄』読んで思ったのは、親鸞の教えっていうのは究極の「他力本願」だってこと。
阿弥陀様はすべての人を救うとおっしゃった。
だから、すべての人が修行したり、学ばなきゃいけないってことじゃない。みんな出家したら、この世界はまわらない。
じゃあ悪人はどうしたらいいのか。
そこにあるのは「南無阿弥陀仏」と唱えることで、極楽往生できると、何の疑いもなく信じ切ることと、念仏を唱えることだけ。

だから親鸞は、当時の仏教では禁止されていたことをやり続けた。
魚・肉を食べ、妻帯した。
それでも「南無阿弥陀仏」と唱え続けることで極楽往生できるんだぞと、自ら実践したんだよ。

ちなみにこの光文社古典新訳文庫版は、親鸞が関西の人だったってことで、訳文も関西弁という画期的、斬新な訳文だから、
現代語訳ではあるけれど、なれない人は読むのに手間取るかもしれない。
私も東北人なので、関西弁はテレビで聞くのは慣れているけど、読むのにはじゃっかん苦労した。

■目次

訳者まえがき
歎異抄
歎異抄 原典
付録 親鸞和讃抄
解説 川村湊
年譜
訳者あとがき

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■学問や修行をしなくても、一般人でも極楽往生できる

理由も理屈もいらないし、求めてもいけない。
なぜなら、ただただ信じることだからだ。

理由や理屈を考えるのは学問をする人が学問をするために必要かもしれないけれど、極楽往生するのにはいらない。
もし極楽往生に理由や理屈が必要なら、住職や学者は極楽往生できて、私たち一般人はできないことになる。
善人である必要も、あえて悪人になる必要もない。
阿弥陀様は、すべての人を救ってくださるから。
ただただ信じ、ただただ唱えること。

私たちが煩悩の塊だっていうことを、おもしろい話で書いていたんだよ。
極楽へ行きたい、往生したいと人は願う。
極楽というところは、悩みも迷いも不安も苦しみもない素晴らしいところだ。
なのに人は、悩みも迷いも不安も苦しみが続くこの娑婆にいたい、長生きしたいなどと願う。
このことこそが煩悩の塊だってことじゃないかってね。

だからといって自らこの世界にサヨウナラするようなことはしてはいけない。
それはさすがに極楽往生できない。

何度も繰り返していうけど、とにかく信じて、とにかく唱え続けること。
なんだって。

原文も載ってるから、そちらも読んでみたらいい。

 

 

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