読みの整理学 – 外山滋比古

2019年1月16日

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■自分にとって未知の文章を読むことの効用と必要性

私のこれまでの体験では、文章は誰が読んでもわかるように書けとか、難しいことを小学生がわかるように説明できることはそれだけで才能だとかっていうのを読んだり聞いたりしたことがあるし、朝礼で読む業務日誌も、そのように書けとしょっちゅう言われる。
それはそれで、そうかもしれないと思うところもあるし、反省もする。

でもね「本を読む」ということに限定すると、私はずいぶんと楽をするようになったなぁって、数年前に反省した。
20代前半までは、戦前戦中のカタカナ混じりの文章だとか、古文を原文で読んだりとか、漢文の読み下し文を読んだりとかしていた(原文はどう読んだらいいのか、まったく見当がつかなかったが)。
読みにくい訳文で書かれた本も、そこそこがんばって読んでた。
それもこれも「もっと難しい本を読まなきゃ、読めるようにならなきゃいけない」という根拠のない理由からだった。

難しい本といっても、内容が難しい本を読めるようになればいいものを、文章が難しい本まで対象にして読んでいたから、1冊読むのに数日から数週間ということもあった。

それがいつの間にか、自分が読むのに苦労しない本、さらさら読める本ばかり読むようになっていた。
だいたいそういう本は、いいことも書いてあるし、おもしろい物語だったりもするけれど、内容が薄かったり、行間を読むなんてことはしなくても、登場人物の感情やら作品世界の設定やらは丁寧に本に書いていることがほとんどだ。

そういう本ばかりを読んでいたことに気がついて、ふと自分の思考を客観的に判定したら、ずいぶんと浅くなっていた。
ふり返れば、高校生から20代前半頃のほうが、今よりもよっぽど人生だとか世界だとか人間だとかについて考えていた。

これじゃいかん。いかんぞ、自分。

と反省し、洋の東西を問わず、純文学を読みはじめ、ここ2年にいたっては小説をほとんど読んでいない。ほとんどっていうくらいだから、読んではいるんだけどね。

で、今回出会ったのがこの『読みの整理学』だ。
前回の記事に感想を書いた『思考の整理学』の外山滋比古の本なんだよ。

ちなみに『思考の整理学』の感想はこちら→思考の整理学 – 外山滋比古

で、この『読みの整理学』なんだけど、読書の技術については書いてない。
自分にとって未知の本を読むことの必要性を説いている。

自分が知ってること、今の自分が何の苦労もなく読めるものばかり読んでいてはいけないと言ってるんだよ。

楽しむだけの読書ならそれでもいい。
でも、それだけだと思考は深くならない。

読めても読めていない。言葉・文章として読めるけど理解できていない。
そういう人が増えていることへの警鐘だ。

目次のあと、もう少し突っ込んで話そう。

■目次

序章
未知が読めるか
マニュアルがこわい
論語読みの論語
第1章
わかりやすさの信仰
スポーツ記事
自己中心の「加工」
音読
第2章
教科書の憂鬱
裏口読者
批評の文章
悪文の効用
第3章
アリファー読み・ベーター読み
幼児のことば
二つのことば
切り換え
虚構の理解
素読
読書百遍
第4章
古典と外国語
寺田寅彦
耳で読む
古典化
読みと創造
認知と洞察

■読めないもの、読みにくいものを読む

この本では、自分が知ってるものを読むのをアルファー読み、未知のものを読むことをベーター読みとして話を展開していく。
で、アルファー読みの代表的なものが雑誌。とくに週刊誌としている。
ベーター読みで例にあげているのが外国語を読んだり、古典を読むこと。

私もさらさらとは読めないけど、日本人なのに古文が読めない人がほとんどなんじゃないかな。
で、読めないから読まない。
けど、著者はあえて外国語や古典を読むことをすすめる。

苦労しながら読み終わっても、けっきょく何が書いてあったかよくわからない。よくわからないから、もう一度読む。それでもわからなきゃまた読む。そうして、何度も読む。読む本はそれなりの価値がある本を選ぶ。
何度も何度も読んでいるうちに、なんとなく読めるようになり、やがて読めるようになる。

でもここでまた壁が立ちふさがる。
読めるけど理解していないこともある。
「読めるけど読んでいない」と著者はいう。

マニュアルや説明書を読んでもわからないっていうのはそういうことだ。日本語として文章は読めるけど、内容がわからない、理解できない。

私が好きな作家のひとりが京極夏彦さんだ。
はじめて『姑獲鳥の夏』を読んだときは、ほんっとページが進まなかった。日本語なんだけど、それまで読み親しんでいた日本語ではない。漢字も見たことがあるけど、そういう読みをしたことがない漢字の使い方をする。
それでも読み進めていると、3分の1をすぎたあたりから、読めるようになってきて、半分過ぎたあたりからは、物語のおもしろさもあって、がんがん読み進められるようになった。

同じことが、これは3回読み返している本で『夜と霧』の旧版にもいえる。
旧版は翻訳が硬い。こなれていない。言葉も古い。
しかし、今なお読み継がれている名著だ。

そういう本だと知らずに、タイトルとナチス・ドイツのアウシュビッツ収容所に捕らわれていた人の体験記だというだけで読んだんだけど、これまたページが進まない。
本編に入る前に、上下二段で構成された解説があるんだけど、これが進まない。
それでも解説を読み終え、本編に入ると1段組になっている。
文章の硬さはそのままなんだけど、1段組になったことで、なんとなく安心したことと、文章に慣れてきたこともあって、そこからはそれなりの速度で読むことができるようになっていた。

外山滋比古さんがいっているのは、こういうことだ。
未知のものを読み、知ることは、思考を深める。
アルファー読みばかりしていても、成長は遅いし、思考も思想も深くはならない。

この本が刊行された2007年の時点で、このままでは日本の将来が危ぶまれると言ってる。

あなたも『思考の整理学』と、この『読みの整理学』を読んで、自分の「読むことと考えることを考える」のもいいんじゃないかな。

そして、未知のものを読んでみてはどうだろう。
私は古典を読むことにした。
著者は物語ではないものを読んだほうがいいと言ってるけど、私は『南総里見八犬伝』『雨月物語』あたりから入って『平家物語』『徒然草』、その他へと進んでみようと思ってる。

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